そっくり人形ヒロのひとりごと 191015 ~聞いてもらいたいわけじゃないけど…~

路上生活者と避難所

 先日の台風19号の時に東京のある避難所で路上生活者たちの利用を認めなかったということがニュースで報じられた。私は避難所を利用するのに資格が必要だとは知らなかったので驚いた。ただ、ネットではその行政側の判断に賛同する人の方がはるかに多いことに更に驚いた。
 

国民の義務と命の重さ

 私はこのニュースを聞いた時に「差別ではないのか」と思った。ただ、行政側は拒否した理由として「住所がない」「避難所は区民の方への施設」ということを挙げたらしい。要するに利用する資格を有していないために断ったということになる。これは差別ではなく区別だということのようである。
 

 また、ネットでの一般の人達の声には「国民としての義務を果たしていないのに権利ばかりを主張するのは間違っている」「自ら自由気ままな生活を選んでおきながら、こんな時だけ行政の支援を仰ごうなんて図々しい」というような論調が多いようでもある。
 

 これらの判断や意見が間違っているというつもりはない。むしろ正論だとも思える。しかし、本当に正しいことなのかと問われると素直に頷くことは私には出来ない。何がどう間違っているのかと言われると自信をもって説明できるだけの根拠もない。
 

 私がこのニュースを聞いて真っ先に思い浮かべたのが山小屋である。繁忙期の山小屋は予約していないと宿泊できないというところが結構あるようだ。しかし、全ての山小屋がそうなのかは分からないが、実際には予約しないで当日に宿泊を希望する人を拒むことはないという話も聞く。その理由は標高の高い山でテントも寝袋もない状態で野宿したら命に危険が及ぶからである。どれだけ人が溢れていようと、取り敢えず雨風がしのげるようにはしてもらえるらしい。
 

 私は災害時の避難所もそういうものだと思っていた。私の認識不足である。ただ、実際に避難所を利用しようと思って行ったところで、「あなたには資格がないから利用できません」と言われたらどうだろうか。もしかしたら「あなたは〇〇市の住民ですから△△があなたの避難所になります。そちらに行ってください。」と教えてくれるかもしれない。しかしそこまで相当な距離を歩かなければならないかもしれず、そこに辿り着くまでに何らかの被害に遭い命を落としてしまうかもしれない。それでも行政の判断は正しかったといえるのだろうか。
 

 また、災害時に「市民のための避難所」の周囲にいる人たちがそこの市民とは限らない。風雨が強まり何キロも離れた自宅に帰ることが困難な人達が、近くの避難所に身を寄せることも断るのだろうか。観光に来た人達はどうすれば良いのか。
 

 恐らくそういう人たちは受け入れてもらえるのだろう。いくら利用資格を満たさないと言っても他に行くところが無く、命に危険を及ぼすような状況であるなら受け入れざるを得ないはずだ。避難所が開設されると言うことは実際に自宅や野外にいると危険な状況だという災害時であり、拒めばその人の命を危険にさらすことになるのだから。むしろ避難所とはそれがあるべき姿のように思う。
 

 そう考えると、今回のことはやはり路上生活者だったから断ったという推測が自然だ(あくまでも推測でしかなく、真実は不明だけれど)。では路上生活者は行政の支援を受ける資格はないのだろうか。「義務を果たしていないから資格は無い」という意見は当然のように聞こえる。しかし、命まで軽く扱われなければならない程、義務は大事なのだろうか。それに路上生活者が義務を果たしていないと何故言えるのだろうか。また、区民だというだけで義務を果たしていると言えるのだろうか。
 

 国民の三大義務は「教育の義務」「勤労の義務」「納税の義務」である。教育の義務は置いておいて、ここで問題になるのは勤労の義務と納税の義務だろう。路上生活者は勤労の義務を果たしていない人が多そうだ(中には働いている人もいるようである)。働いていなければ納税の義務も果たしていないと考えられるが、それは正しいだろうか。
 

 路上生活者だって働いていないけれども納税者である可能性がある。一般の人にも働いていなくても納税者になっている人は沢山いる。扶養家族という立場で。路上生活者の中にも自宅で暮らしていないだけで、誰かに扶養してもらっている人がいるかもしれない。その場合は義務を果たしていることになる。逆に働いている一般人でも税金を滞納している人がいるかもしれない。その地域にきちんと居を構えて暮らしていることと、きちんと義務を果たしていることとは違う。
 

 例え勤労も納税もしていないとしても人間として命を軽く扱われても仕方がないものなのだろうか。「全ての命は平等である」と子供の頃から教えられてきた。しかし、その前提に「国民としての義務を果たしている場合は」という条件が付いているとは今まで一度も教えてもらったことは無い。私の記憶から抜けているだけなのか?。もともと私は記憶力が悪い方だから、その可能性は否定できない。
 

 もちろん国民としての義務を果たしていないのに社会保障を受けようとすることには問題があると思うが、それで命の重さまで軽く扱われるのは腑に落ちない。せめて山小屋のように雨風がしのげて命を保証できる場所を提供しても良かったのではないか。命の危険を感じて頼った避難所で空いているにも拘らず拒否をされたことは「お前は死んでも構わない」と言われたようなものである。まあ、「お前はすでに死んでいる」よりも良いけれど…。
 

 路上生活者は恐らく自分たちが社会には受け入れ難い存在であることを自覚しているだろう。それだけに避難所でも出来るだけ周りに迷惑を掛けないように過ごそうとの良識は持っていると思いたい。今回の意見の中に「何をするか分からないから危険」「感染する病気を持っているかもしれない」「汚い、臭いから迷惑」だから避難所に入れるべきではないというのも多い。でもそれは先入観である。一般の人の中にもそれらに該当する人はいるのではないか。不審者というのは一般人の中にこそ紛れているように思うが、そちらは気にされること無く避難所を利用できているだろう。
 

 そういう私だってすぐ隣に路上生活者がいたら嫌だという思いはある。出来るだけ子供は近付けたくない。しかし、それはこちらがある程度我慢することを求められるものだと思う。たとえ同じ地域の住人だとしても見ず知らずの人は大勢いる。病気や衛生面、素性などが分からない人達と一緒に過ごさなければいけないのが避難所の宿命みたいなものではないか。私は避難所生活をしたことが無いので偉そうなことは言えないけれど。
 

 路上生活者だって全員が自ら好んで路上生活をしているわけではないだろう。以前は立派な社会人だった人も多いのではないか。私だって一つ間違えれば路上生活をしていたかもしれないし、この先そうならない保証もない。これは今の時代には全ての人に言えることのように思うのだが。人生全てが自分の思い通りにはならない。一寸先は闇…。
 

 もしも自分が、いや、自分ならまだしも、自分の子供が何らかの理由で将来路上生活をせざるを得ないことになったら、今回のように命に危険を感じるような災害時に避難所で拒否されることは当然だと思えるだろうか。そこに命の選別をされたとの思いは全く無いと言い切れるだろうか。何が正しくて何が間違っているのかの境界線を引くことは私には出来ない。ただ、もしも私が行政側の立場だったら、拒否することに大きな抵抗を感じただろう。
 

 今回のことに私が違和感を覚えた大きな要因は、路上生活者の存在を多くの人が自分とは違う世界の存在であると考えているようだったことだと思う。つまり、多くの人は私とは違うのだということを知らされたのだ。拒否された路上生活者は、もしかしたら自分だったのかもしれない、だとしたら自分は生きる価値が低い人間なのだろうか、その思いが私の中に少なからずあることを否定しきれないことは間違いない。

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